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花咲ける八畳ブログ

カミノテクノ創刊

配信最終日にブログ更新と言う体たらくですよ。

まぁね、今の世はSNSが主流ですから、こういう個人サイトでわざわざやる意味と言うのは薄れてきているよね。

それでも、せっかくブログを持っているのだから書くべしだ。

と、いうことで

カミノテクノ001縮小.png

ネットプリント誌「カミノテクノ 庵号」刊行!

詳しくは私のツイート見てくりゃわかると思うし、てかこれ見ている人なんてほぼ例外なく私がツイートに貼ったリンクから飛んできた人ですよねー。

ああ、適当な文章

カミノテクノは四編の詩を掲載している。漫画だったり小説だったりと作っていた私がなぜ今回詩にも手を出すようになったか。それは私が某大学で受けていた「近代文学史」という講義が元にある。近代詩の初めから終わりまでを様々な詩人を軸にしながら語っていくという授業だった。その中で「詩は地方のもの」という先生の発言があった。萩原朔太郎や室井犀星、宮沢賢治、草野心平など、地方性を持つ詩人の感性があって初めて日本の詩の近代化は完成したという意だ。

私は、上京したくてしたくてしかし大学進学の期にはできなかった者だ。もうこの福島という土地の性質が嫌と言うほど染みついてしまって皮肉にもアイデンティティの一部と化してしまっている。そこにその言葉だから、もう頭がパーン。実はその発言があった授業の一つ前の感想レポートに、自分も昔同人誌を出していたが結局周りに同志がいなく続けられなかった。朔太郎みたいにむかしの文人が自主的に同人誌を出していた、出せたのが羨ましい。なんてことを書いた。そしたら次の授業でその言葉。そして「都会に行きたいけど、しかしそこでは生活していけないという鬱屈した心情ってあるよね」と。ありますよね。実際、今の私が東京もし行けたとして、そこで生活できないだろう。完全にこの地に腹据えているわけでもなく、かといってカルチャーの中で生きていく自信も無い。。中途半端な、やりようのない、そんな心理は田舎者だからのものだ。そしてその特性が詩の近代化に不可欠だったのだ。

かような流れがあり(うまく書けてないなぁ。やっぱ音楽聴きながら文章は書けないな。しかも聴いていたのパカソンだし。さんびゃくまんさんびゃくまんさんびゃくまん)、詩を書かねばならぬという使命に似たものが湧き上がった。それが去年の12月。そして2月1日、カミノテクノ創刊。

あと一時間足らずでネットプリントの配信が終わる。

私は詩に関してはまだまだ何もわかっていない。これから学んでいこう。どうかよろしく。

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